2015 izumo

 

 
 
出雲は日本の中でも最も神秘的な神話の宝庫。国内の旅にはなかなか行く機会がない私、主人のゼミの建築見学旅行にご一緒させて頂く。台風の合間を 縫って羽田から1時間半、米子鬼太郎空港に到着。鬼太郎の作者、水木しげる氏の出身地という事から鬼太郎空港と命名されたそう。早速、菊竹清訓氏 設計の東光園に向かう。

 

 

 
 
東光園は日本海に面した米子、皆生温泉にある地下一階、地上7階立ての観光ホテル。建築家、伊東豊雄氏が「世界の建築も含めて最もインパクトのあった建築」と述べているとか。1964年に完成というので東京オリンピックで日本中が沸いていた頃か。構造は鉄筋コンクリート造で客室階である5、6階を大梁から吊り下げるという大胆な構造形式、モダニズムが主流であった時代に、日本の鳥居のような形を回顧的でなく近代建築に持ち込んだという説明を受ける。

 

 

 
 
彫刻家、流政之氏作の庭園が美しく広がる。ロビーは鳥居のような組柱が圧倒的な迫力で空間を支配している。菊竹氏の同級生である建築家、穂積信夫氏が建築雑誌のインタビューで「東光園の鳥居のような柱は座屈を貫で抑えるという日本的な発想で、松井源吾先生との会話から生まれた。大抵の人は日本的なプロ ポーションを学ぼうとするけれど力の流れまでは考えない」と語っていらしたと いう記事をを読んで、その空間を体験する。

 

 

 
 
 
レム・コールハースとキューレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリストが 2005年から2011年という長期にわたり、メタボリズムの現存者をは じ め彼らの師、仕事仲間、ライバル、批判者、弟子、家族たちという幅広い人たち にインタビューを行った、壮大な企画の本「プロジェクト・ジャパン  メタボ リズムは語る」。菊竹氏の東光園を取り上げている。レム・コールハースの建築 作品はあまり好きではないけれど、この本のとてつもない壮大 な企画と大変な 作業量、緻密なまとめ方には本当に感動する。理論派として常にシニカルな発言 の氏も、元新聞記者とあってインタビューでは実にピュ アに聞き手に徹してい る事にも感動する。

 

 

 
 
安来節のつき物である「どじょうすくい」発祥の地であるこのあたり、お昼にはどじょう料理を頂く。安来節は大正時代に吉本興業の林正之助が仕掛けて大阪で大ブームになったと言う事にも驚くが、芸歴のスタートがこの安来節という芸人さんが数多くいることにもびっくり。子供の頃、祖父がよく連れて行ってくれた駒形のどじょうを思い出す。

 

 

 
 
地元出身の実業家、足立全康氏創設の足立美術館を訪れる。「庭園もまた一幅の絵画である」と庭ずくりに情熱を傾け、50000坪の敷地に枯山水庭、白砂 青松庭、苔庭、池庭が次々に展開される。

 

 

 
 
 
歩みを進めるたびに広がる閑静な庭園は美しく、ルイ14世が造園家アンドレ・ ル・ノートルに作らせたヴェルサイユ宮殿の庭園を思い出す。庭園は一つの芸術の領域であり、一つ一つが作品である事を実感するけれど、作者である造園家の名前がないのは少しさびしい。

 

 

 
 
 
庭園も素晴らしいが、圧巻なのは日本画のコレクション。質量共に日本一として知られる横山大観のコレクションは130点にものぼる。個人的には父 の建築の先生である吉田五十八先生が美術館を設計された川井玉堂の作品を見ることが 出来て嬉しい。1957年に没するまでに1931年、フランス政府からレジオンドヌール勲章を、1933年にはドイツ政府から赤十字第一等名誉賞を贈られ、1940年には文化勲章を・・・。こんなに偉い方だったのかと改めて思う。上村松園は大好きな画家、1948年に女性で初めて文化勲章を受賞したというのも素晴らしい。一代でこれほどのコレクショ ンを築来上げた足立氏にも感服する。

 

 

 
 
東光園と同じく、菊竹清訓氏設計の島根県立美術館を訪れる。21世紀の文化拠点として1999年に開館した山陰最大規模の美術館。「水と調和する美術館」がテーマとあって、宍道湖と見事に調和した建築。水が描かれた作品を多数所蔵しているそう。宍道湖の夕日は「日本の夕日百選」に定められているとかで、夕日鑑賞に適した設計がなされている。

 

 

 
 
穏やかな波状のカーブを描く高い天井のロビー、風景と一体化したような建物の形態は水面と大地を繋ぐ「なぎさ」をイメージしたものだという。対岸から見た時に背後の山並みを遮らない様に高さは低く抑えられ、屋根は日光をやわらかく反射するチタン製にしているというのは素晴らしい。周囲との調和などオカマイナシの昨今の建築家にも見習って欲しいもの。ブルーデルやマイヨール、ロダンと言った大御所の収蔵作品はやはり県立美術館、偏りがなく優等生な感じ。足立美術館のように一人の人の趣味と情熱で集めたコレクションの方が、たとえ偏っていても見ごたえがあるように思う。

 

 

 
 
島根県内には菊竹氏の初期の作品が数多く点在している。1960年頃新陳代謝する建築や都市を追求する「メタボリズム論」を提唱した氏のインタ ビュー を、レム・コールハースの本で読んだことを思い出す。島根県庁第3分庁舎を見ながら、助手のNさんの説明を聞く。説明があって見学するといろいろな側面が見えて来て興味深い。藩主であった松平直政公像を眺めつつお堀端を歩くと、 いよいよ松江城が迫ってくる。

 

 

   
 
 
 
松江城は平山城(ひらやまじろ)という、平野の中にある山や丘陵に築城された城。江戸時代の軍学者によって分類された地形による城の分類法の一つで、 「ひらさんじろ」と読むものは丘城のことだそう。天守がある本丸の周辺に二之丸、二之丸下ノ段、後曲輪(うしろくるわ)が巡り、南にはお堀を 挟んで三之丸がある。濃い緑に包まれてそびえ立つ松江城を見ながら 静々と歩く。

 

 

 
 
明治の初め全国の城はほとんど取り壊されたけれど、地元の豪農、勝部本右衛 門、旧松江藩主、高城権八らの奔走によって山陰で唯一保存され、松江のシンボルとなっているそう。ゼミ生の皆さんと記念写真!

 

 

 
 
 
全国に現存する12天守の一つで、天守の平面規模では2番目、高させは3番目、古さでは5番目というこの天守。(国宝・文化財建造物目録による) 昭和10年に国宝に指定され、昭和25年には文化財保護法の制定により重要文化財と改称され、今年、平成27年7月に国宝に再指定されたという。 「祝・国宝」の垂れ幕の意味がようやくわかる。蹴上げの高いこの階段を一歩一歩踏みしめながらいよいよ登閣。

 

 

 
 
この天守は彦根城、犬山城と同じく、附櫓を設けた複合式望楼型で、一、二重目は大入り母屋屋根で全面下見板張り、望楼部と附櫓も一部白漆喰、窓周りの木部は全て黒塗りなので、黒を基調とした天守と言える。籠城用生活物資の貯蔵倉庫であり、穴倉の間と呼ばれ、塩などさまざまな物が備蓄されていたそう。

 

 

 
 
天守に登り切ると松江の街がパノラミックに広がる。爽やかな風が吹きぬけ、何 だか城主にでもなったような豪快な気分になる。この松江城天守は二階 分を貫 く通し柱を効果的に配置し、上層部の重さを分散させながら下層部に伝える構造 のため、長大な柱を用いることなく、上層になるほど平面が縮小 する天守という独特な構造の建築を可能にしたものだという。モダニズムの建築を見た後だけに、なるほど・・・と寛永時代の築城に思いを馳せる。

 

 

 
 
壮大なスケールの松江城を後に城下町へと下る。天守入り口の防備を固くするた めの附櫓(つけやぐら)が見えなくなる頃、美しい町並みが始る。消火栓やマンホールもなかなか凝ったデザイン。昔、父とコルビジェ作品を見にインドのチャンディガールに行った時、マンホールにコルビジェの都市計画がデザインされていて感激したことを思い出す。松江にてインドのチャンディガールを思い出すとは!

 

 

 
 
旅をするとその地にゆかりのある事柄や人物について深く学ぶ事が多く、興味は 尽きない。小泉八雲-パトリック・ラフカディオ・ハーンが一時この松江に在 住していた事から、城下町の中ほどに小泉八雲記念館がある。1850年、後にギリシャとなるイギリス領レフカダ島に生まれたため、ラフカ ディオというミ ドルネームが付いた。その後厳格なカトリックの教育を受けキリスト教に懐疑的になった事から、アイルランドの守護聖人、聖パトリックにちなんだファース トネームを嫌いあえて使わなかったという。フランス・イギリスで教育を受け、 アメリカの出版社の通信員として来日した後、 契約を破棄して日本に残り 東京帝国大学英文科の英語講師となった(ちなみに後任は夏目漱石だっとい う)。1896年日本に帰化し島根県士族の娘であり、出雲国造、千家の遠縁である小泉セツと結婚し小泉八雲と名乗った。 八雲という名前はこの松江に住んでいたことから出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」にちなむそう。 余談だけれど、長男にはアメリカで学ばせたいと考えイサム・ノグチの母 、レオニー・ギルモアに英語の個人教授を受けていたとか。 妻セツは英語を介さず、ハーンは日本語がわからない。あの時代に日本に来た外国人・・・さまざまに思いを馳せて何だか気が遠くなりそう。 ブルーノ・タウトやアンドレ・マルローと共に著名な日本文化紹介者である。

 

 

 
 
気持ちの良い夕暮れの中、城下町をそぞろく。松江城を中心として400年もの歴史と文化、小泉八雲が「神々の首都」と呼んだこの街。まるで映画のセットの中にいるような気分になる・・・。

 

 

 
 
台風のため予定を変えて大雨の中、浜田市まで車で移動。高松伸氏設計の浜田市世界子供美術館へ。海の見える文化公園の一角に「日本海に漂う創造と 美の船」をイメージして設計され、創造という果てしない海を子供たちはこの船に 乗って冒険する、というコンセプトだそう。

 

 

 
 
「アートの秘密基地」という何とも子供がわくわくするようなタイトルの展覧会。オトナも十分に楽しめる体感型の展示が楽しい!子供の頃からあまり 感性が変わっていない自分に気がついたり・・・。

 

 

 
 
幼い頃から美術に触れ合う事で想像力や感性を養うことをモットーにしたこの美 術館、展覧会はもちろん参加型のワークショップ、そして学校と連携してクラス単位で美術館を訪れ絵画などを鑑賞するという試みを行っているそうで、さまざまな使用目的の部屋がある。母が大好きだった橋本明治氏の作品も収蔵されていて、氏が浜田市の出身であることを知る。独特の画風がフェルナン・レジェに影響を受けているのでは?と思うけれど・・。結婚式の時、さまざまなお礼に橋本明治氏の桜の柄の小風呂敷を選び、今も大切に持っている。

 

 

 
 
「見ること、作ること」と掲げているように、美術鑑賞の後はお家に帰って作れるような工作のキットも売っている。なかなか面白い物が多く、ついあれこれ買ってしまう。紙のコースターに画を描いてもいずれ捨ててしまう・・・。こんな陶器のお絵かきコースターならいつまでも使える。

 

 

 
 
 
子供の頃、父の設計した家のアトリエで毎日何かを作っていた。手芸や工作、染 色家の母の隣で型染めなどもしていたっけ・・・。そんな経験をいつか 本にし たいと思っていたので、台風のおかげで思いがけずこの美術館に来られた事に感 謝する。フランスの「L’ATERIERーラトリエ」は子供の 情操教育のため にアート全体を体験する試みを行っているパリ郊外に本拠地を置くグループ。日 本ではこの子供美術館と提携しているようで、嬉しい偶 然の再会!

 

 

 
 
 
島根県石見地方の郷土料理、日本五大銘飯の一つである「うずめ飯」を、台風で 荒れる日本海を見ながら頂くというシュールなランチ。ご飯の下にさま ざまな 具材が「うずまって」いて、お出汁をかけてこのあたりの名産、わさびをたっぷ り載せて頂く。海鮮丼もここではお出汁をかけるのが普通らし い。

 

 

 
 
 
国指定天然記念物、石見畳ヶ浦に立ち寄る。スペインのロマネスク教会を訪ねた 時のような、絶壁の先に美しい光景が広がる。

 

 

 
 
 
明治5年の浜田地震で出来たとも言われる隆起海床。その海床には1600万年 (!)前の貝の化石や鯨骨などを核とした直径50cmほどのノジュー ル(化石 や砂粒を核として凝集された塊)が数多くある特異な景観。昭和7年以来の天然 記念物という。思わず海水に入りたくなる・・・。

 

 

 
 
 
台風も去って穏やかな海岸で貝殻やシーグラスを拾う。子供の頃、海で祖父と 拾った貝殻で貝殻細工など作っていた。一つとして同じ形のものがない天然の宝石のよう。コルビジェが貝殻を集めていた事を思い出す。ネックレスやブローチにしようかな・・・。まさか1600万年まえの貝の化石では? 仕事以外でも、「作ること」にアイディアは尽きない。

 

 

 
 

高松伸氏設計による江津市総合市民センターミルキーウェイホールを見学。休館日ということで、内部を静かに見せて頂く。石見畳ヶ浦の大自然が作る神秘的な景観と、車窓から見た美しく変わり行く日本海の景色の残像で、なかなか現実に戻れない・・・。

 

 

 
 
吉坂隆正氏の設計による江津市庁舎を見学。1959年竣工というのに現在も生き生きと使われていて、市庁舎の方が丁寧にご案内下さる。残念ながら 改修工事を重ね竣工時とはやや違う趣ではあるけれど、A型の柱に支えられたダイナミックな構造は当時のまま。吉坂先生らしい骨太な感じの手すりは何だか懐かしいような・・・。大きなピロティーの空間は体感してみると大変な迫力。

 

 

 
 
 
高松伸氏の設計による「仁摩サンドミュージアム」を訪れる。日本海に面する仁摩町の名物、「鳴き砂」。砂の粒子が細かいため踏むと音を奏でるという。エジプトのピラミッドを思わせる建物の中にはさまざまな種類の「砂」がある。

 

 

 
 
 
鳴き砂を使った世界一の一年計砂時計、砂暦。同志社大学の三輪名誉教授(粒体工学)監修によるもので直径1m、高さ5.2m、総重量1tもの砂が使われているそう。

 

 

 
 
自然の作る形は本当に神秘的。日本各地の砂の標本(?)も興味深く、それぞれに違う粒子、細かかかったり粗っぽかったり。チュニジアのサハラ砂漠 をらく だで歩いた時、あろうことか、らくだから落っこちてしまった。砂丘を転がってようやく止まった時に、乾いた砂がさらさらと体から落ちていく不思議な体験 をして以来「砂」にはとても興味があったので、再び台風のおかげでこのミュー ジアムに来られた事に感謝する。

 

 

 
 
神話の宝庫として知られる出雲。大国主大神とともに国造りをした少彦名命(す くなひこのみこと)が発見したとされ、日本でも最古の歴史を持つ玉造 温泉。 出雲国風土記には「ひとたび濯(すす)げば、形容端正(かたちきらきら)し く、再び沐(ゆあみ)すれば萬の病ことごとに除ゆ(いゆ)」と記 され、「神 の湯」と呼ばれる。「川辺の出湯」ともいわれ清少納言の枕草子にも玉造の名が 見られ、京の貴族の間でも評判になっていた事が伺えると か。夕暮れに川辺に 座るようにして足湯を楽しむ。台風が去った後の澄んだ夕焼けの温泉街、何だか 夢のよう・・・。

 

 

 
 
明治45年(1912年)に開業された大社線、大正13年(1924年)に改築された大社駅。出雲大社の門前町の表玄関にふさわしい純和風の木造平屋建 て。中央屋根部分の両端の装飾や、屋根の合掌部分に取り付けられた懸魚、屋根の降(くだり)棟の先端にはいろいろな亀の瓦、建築界の先駆者、伊東忠太が 関与したと思われるデザイン。

 

 

 
 
JR大社線は平成2年に廃止され、この旧大社駅舎は平成16年に国の重要文化財にしてされた。高い天井からは大正風の和風シャンデリアが取り付けられ、 何とも大正ロマンを感じる造形美。駅舎の設計は伊東忠太ではないかと言われていたらしいが、偶然発見された棟札により、設計は当時の神戸鉄道管理局の丹羽光雄であったそう。

 

 

 
 
伊東豊雄氏設計の出雲大社プレイスを見学する。複数のホールからなる「うらら 館」と出雲市立大社図書館「でんでんむし」との複合施設。2005年 に大社 町は出雲市と合併したため現在は出雲市の施設になっている。

 

 

 
 
槙文彦氏設計による島根県立古代出雲歴史博物館を訪れる。出雲大社のすぐ横、 深い緑に包まれた端正な博物館。建築の主張を抑える、というコンセプ トもこ の地にふさわしくて素晴らしい。面と線を簡素に表し、素材も鉄とガラスと言う シンプルな組み合わせ。壁面の鋼(はがね)は古代のたたら鉄 製、ガラスは現 代性を象徴し古代と現代の融合と言う意味合いあるそう。敷地はもともと湿原で あったため庭園の樹木はシイやカシなど常緑の広葉樹が 植えられているせい か、鬱蒼とした緑が印象的。

 

 

   
 
 
中央ロビーには2000年に出雲大社境内から出土した宇豆柱が展示されている。館内は「出雲大社と神々の国のまつり」、「出雲国風土記の世界」、「青銅器と金刀」、「島根の人々の生活と交流」、「神話回廊」に分かれている。中央ロビーには2000年に出雲大社境内から出土した宇豆柱が展示されている。直径1.35mの杉の柱を3本束ねた形状で、鎌倉初期の造営と推定されているそう。

 

 

 
 
 

「出雲大社と神々のまつり」の展示では、巨大神殿であったとされる出雲大社の 謎を中心として、神在月の伝承など古代から連綿と続く出雲大社の営み などが わかる。平安時代の出雲大社本殿の10分の1の模型、模型で見ても果てしなく 巨大・・・。今から1000年も前にこの様な物が存在した事に本当に驚く。 現在の出雲大社の本殿の高さは24mだけれど、古代出雲の本殿の高さは現在の4倍、 96mであったと言われているそうで、その後中古には現在の倍の48mあったと伝えれていたとか。 長い間木材建築でそのような高さのものは不可能では?と言われてきたところに宇豆柱の発見で幻は 現実であったことがわかる。3本の柱が上空に向かいそそり立ち、長い長い階段の果てに巨大な空中神殿を構える。

 

 

 
 
 
1881年の遷宮から昭和28年(1953年)の遷宮の時まで実際に使われていた杉の千木(ちぎ斜めのもの)・勝男木(かつおぎ横のもの)。長さは8.3m、重さは500kgの巨木。出雲大社本殿の正に一部を間近で見られることに驚く。神在月のビデオは興味深く、 「神聖な」という言葉以外に見つからない。

 

 

 
 
 
「青銅器と金色の大刀」のコーナーでは、出雲市斐川町の「荒神谷遺跡」から出土した358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が展示されている。 1983年からの発掘で見つかった物で、 現在では「島根県荒神谷遺跡出土品」として一括で国宝指定されているという。 ライトアップされていて迫力の銅鐸、景初3年の卑弥呼のかも知れない銅鏡も あり、「悠久の時を越えて」と言う表現ではとても追いつかない・・・。

 

 

 
 
2階に上がるとテラスとカフェ、全てにおいて控えめで端正なデザインで、古代 出雲に思いを馳せるには素晴らしい静かな環境。中庭に出ると静かに水 のせせ らぎか聞こえて、水面にガラスが映えてどこまでも透明な気持ちになる。

 

 

 
 

中庭に出ると、この博物館が鬱蒼とした緑に包まれていることを実感するような 森の匂い・・・。展望台から見た出雲大社がいよいよ迫って来る。古代 の日本 を知り、感じ、その起源に思いを馳せてから出雲大社を参拝することになり、何だか、神聖、厳粛、荘厳・・・というボキャブラリーが浮かぶ。

 

 

 
 
博物館から出雲大社へ上がっていくと神門通りという参道に出る。おみやげやさ んも多く立ち並び、先ほどまでの「荘厳な」気持ちも少し和らぐ。日本 3大そ ばの一つ、出雲そばで昼食。蕎麦の実を皮ごと挽くので色は濃く香り高い。神在月におこなわれる神在祭には神社の周りに屋台の蕎麦やが並ぶそう。3段の 丸い漆器に蕎麦を盛って出す割子蕎麦が有名な形とか。出雲地方では重箱のことを割子ということからこの名前と聞き、日本の郷土料理の 面白さを思う。

 

 

 
 
いよいよ出雲大社へ。1000年も昔にこのような壮大なスケールで建設された出雲大社。もはや一つの都市計画のよう。神話の地である出雲、その聖 性の中心をなす出雲神話の主人公とも言える大国主大神をおまつりしているこの出雲大社。60年ぶりの平成の大遷宮を終え、再び・・・。

 

 

 
 
年輪を感じさせる松の茂る参道を歩くとおのずと神聖な気持ちになる。ラフカ ディオ・ハーン(小泉八雲)は出雲大社に参拝しその印象を「神国とは日本の聖なる名称である、そしてその神国の中で最も聖なる土地が出雲の国である」と著書に記したという・・・。

 

 

 
 
ラフカディオ・ハーンはアイルランド人の父とギリシャ人の母を持ち、ケルト神話とギリシャ神話に親しんで育ったという環境から出雲の聖性を直感的に感じとったとのだろうか・・・。そんなことを思いながら本殿に向かう。1953年に消失した庁の舎は菊竹清訓氏設計により再建され、現在では祈祷受け付け所 として使われている。出雲地方の稲掛けをモチーフにしたプレストレスト・コンクリー トの外装。

 

 

 
 
いよいよ本殿で参拝する。ここでは二拝四拍手一拝が作法とのこと。大鳥居、勢 溜の正門鳥居、下り参道の先、松並木参道の鳥居、そして拝殿前の銅鳥 居の4 つをくぐってようやく参拝となる。

 

 

 
 
およそ60年事に行われる御遷宮。元来、周期的にご本殿をご新造、ご修造する ことにより神威の再生を願い、ひいては日本の国そのもの命の蘇りを期 する日 本古来の制度。出雲大社の場合は、戦災からの復興の槌音と共に行われた昭和の大遷宮に続き、平成の大遷宮は東日本大震災からの復興を願う特 別な大遷宮で あったという。

 

 

 
 
壮大なスケールの御本殿、そして摂社の天前社(あまさきのやしろ)、御向社 (みむかいのやしろ)と続く。正に「たなびく雲間に千木が聳え立つ天下無双の大廈(たいか)」・・・。苔むした檜皮葺大屋根に60年という年月を感じつつ 歩く。

 

 

 
 
雲間に分け入るように高々と天に結ぶ千木を頂く御本殿の威厳溢れる佇まい、境 内全体を包む凛とした気配、八雲山から改山へと連なる鬱蒼とした深い森の放つオーラ、その全てが異邦人であるハーンにも見えざる神々の存在を感じさせたのかもしれない。神在月には全国八百万の神々がここの集まって男女の縁について会議をさせることから縁結びの神様として知られるようになったという。ゼ ミの学生の皆様もどうか良いご縁に恵まれますように・・・。

 

 

 
 
trip index 古事記に記され、日本神話に出てくる大国主命と、兎の像。子供の頃に読んだ 「因幡の白兎」、皮を剥がれた兎がガマの穂を体にまとってふわふわの元の白兎に戻ったと知ってほっとしたこと、そして軽井沢でガマの穂を買ってもらって部屋に飾っていたことを遠く思い出す。皇后様の御歌を前に祈りの気持ちを新たにする。参道で拾った松ぼっくり、神様のお使いかもしれない。短い間にさま ざまに見聞を広めた3日間、ゼミの生徒さんに深く感謝申し上げます・・・。 page top

home